スペシャルインタビュー

桑田真澄 – 損得勘定では決断しない 決断の拠り所になるのは情熱だと思う

桑田真澄 – 損得勘定では決断しない 決断の拠り所になるのは情熱だと思う

多くの人の記憶に鮮烈な印象を残した甲子園での熱投。そして、ジャイアンツのエースとしての活躍。華々しいキャリアの裏には、どのような決断があったのでしょうか?
桑田真澄氏に、野球人生の転機や決断の際の判断基準について伺ってきました。
聞き手:山下末則氏

中学1年生ですでに「PL」「早稲田」「プロ野球」と決めていた

山下末則(以下、山下) 今回は、「真のプロフェッショナルの決断」というテーマでお話を伺います。私自身、何度も桑田さんにはお話を伺っているのですが、中学校のときにはすでに、PL学園、早稲田大学を経て、プロ野球選手になるという道筋を決めていましたよね。それは自分自身で決めたことなのですか?

桑田真澄(以下、桑田) そうですね。小学校時代はケンカばかりをしていて、勉強はまったくできない、野球に関しても中途半端という子供でした。ただ、中学校に入学するときに、母親から「あなたはどういう人生を歩みたいの?目標を立ててみたら?」と聞かれたんです。問題を起こして学校に呼び出されたりもしていましたし、息子の人生が心配だったんでしょうね。

そのときに立てたのが、「PL学園で甲子園に出場して、早稲田大学に入って六大学野球で優勝して、プロ野球選手になる」という目標だったんです。そうしたら、「その目標を達成するためにはどうしたらいいと思う?」と、また母親に問いかけられました。そのときに思ったんです。「がんばるしかない」と。

でも、単純に「がんばろう」と考えても仕方ないですよね。そのときに僕が幸運だったのは、目標を達成するための方法に気付けたこと。そして、さらに幸運なことに、考えた方法を実践できたのです。これは僕の人生でも大きな転機になりました。

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PL時代に気付いたこと「自分らしくやればいい」

山下 さすがですね。普通の中学生は、そこまで具体的に目標を立てて、目標に向けて努力できませんよ。そのあと、実際にPL学園に入学するわけですが、入学すると同級生にはすごい能力を持った人間がたくさんいたでしょう。そのときも気持ちは揺らぎませんでしたか?

桑田 実は高校1年生で完全に挫折しました。自分はちっぽけな世界で一番になっただけで、全国にはもっとすごい人間がたくさんいるということを実感させられたのです。同級生も先輩もすごいんです。体力面でも技術面でも圧倒されました。自分は体も小さいし、やっていくのは無理だと思って、100%辞めるつもりになっていました。

その想いは、母親にも打ち明けました。そうしたらまた母親に言われたのです。「せっかく目標にしていたPL学園に入学できたんだから、最後まであきらめちゃダメ。体が小さくても成功できる方法はきっとあるはず」と。その言葉を、なぜかスッと受け入れられたんです。「他人と同じ方法を採る必要はない。自分らしくやればいい」ということに気付いたんですよね。

ちょっと大げさな話になってしまいますが、人は必ず死ぬじゃないですか。そして、いつ死ぬかわからない。だったら、命のある限り自分の好きなことをやって、ひとつでも多く挑戦を続けたいと思ったんです。だから当時は、自分にとって何がベストなのか、自分らしさとは何なのかということを常に念頭に置いて野球に打ち込んでいました。

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人生において大切なのは「意志」「情熱」「縁」

山下 そういう想いが結実したのでしょう。PL学園のエースとなり、甲子園での優勝という目標も実現しました。そして、ジャイアンツ入団となるわけですが、ドラフト指名では難しい立場にもなりましたよね。当初の目標どおり、早稲田大学へ進学するという進路もあったと思うのですが、決断の決め手になったのは何だったのでしょうか?

桑田 当時の王監督に「俺といっしょに野球をしよう。ジャイアンツへの入団がたいへんなのはわかっている。でも、いっしょに乗り越えていこう」と言われたのです。それが決断の決め手でした。僕は小学校からの巨人ファンで、王さんに憧れて野球をしてきました。その王さんに「俺といっしょに野球をしよう」と言われた。それは運命だったと思うんです。王監督の胸に飛び込んでいこう、行きたいと思えました。もし、当時の監督が王さんでなければ、結果は変わっていたかもしれません。

人生において一番大切なのは、自分の意志や情熱だったり、目標に対する努力だったりすると思うのですが、もうひとつ大切な要素があると思います。それはタイミングとか縁というもの。普段から一生懸命に努力をしている人には、幸運や縁が巡ってくると思うんです。

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恥をかいてもいい。自分の見たいもの触れたいものに挑戦すべき

山下 ジャイアンツ時代の活躍は皆さんが知るところですが、私がすごい決断をしたなと思うのは、やっぱりメジャーリーグへの挑戦です。当時は肘を痛めていて、リハビリも必要でした。私だったら絶対にそんなことは考えられないです。

桑田 チャンスがあるなら、あのマウンドに立ってみたいと思ったんです。周りからは、「もうすぐ40歳という年齢でメジャーリーガーになんてなれるわけないだろう」「恥をかくだけだからやめておけ」なんてよく言われました。でもぼくの気持ちは、「恥をかいても、笑われてもいいじゃないか。自分の人生なんだから、見たいもの触れたいものに挑戦すべき」というものでした。だからああいう決断ができたんです。

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努力しようと思っているときは、まだ情熱が足りない

山下 周りの反対があったとおっしゃいましたが、奥様やご家族の反応はどうだったのでしょう。反対されたということはないと思いますが。

桑田 反対はありませんでした。おそらく彼女は、僕の決断は損得勘定ではないということを理解してくれているんだと思います。僕の場合、決断の基準は「ここに行けば得をする。ここへ行けばいい結果が出る」という考え方ではないのです。「情熱を注げるものを見つけ、そこに至るためのプロセスを考え、努力し通すこと自体に魅力を感じる」。その上での決断なんです。結果はもちろん大事ですが、結果だけを求めて行動することはありません。情熱や結果に至るプロセスがあってこその結果なんです。

今回のインタビューのテーマに「プロフェッショナル」という言葉がありましたが、情熱とプロセスと結果、この3つがそろうのがプロフェッショナルなんだと思います。僕はよく「努力家」と評されるのですが、自分自身では努力した記憶は一切ありません。やりたかったんです。肘を手術したときも、「お前はよくそんなに熱心にリハビリができるな。走り込みができるな」と言われました。でも、自分がリハビリをしたかったんです。走りたかったんです。努力しようと思っているときは、まだ情熱が足りないんだと思います。

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<桑田 真澄氏 プロフィール>
1968年生まれ。PL学園で1年生からエースとして活躍し、甲子園5期連続出場、2回の優勝を果たす。甲子園通算20勝は戦後歴代1位。1986年にジャイアンツに入団。通算174勝。沢村賞、最優秀選手、ベストナイン、最優秀防御率、最多奪三振など、投手としての主要タイトルを軒並み獲得している。2006年にメジャー挑戦を表明し、2007年にピッツバーグ・パイレーツでメジャー初登板。2008年に現役を引退する。現在は、野球評論家・解説者と並行して、「特定非営利活動法人アミーチ・デル・クオーレ」の理事長として、子供たちの野球育成や合理的な指導法の普及などに努める。日本野球機構(NPB)の特別アドバイザー、PL学園硬式野球部OB会長、2021年からは読売ジャイアンツ一軍投手チーフコーチ補佐。

<山下 末則氏 プロフィール>
26年間、プロ野球・ジャイアンツ戦を中心に、日本テレビのスポーツアナウンサーとして活躍。箱根駅伝のメインアナウンサーを8年間務め、陸上競技にも精通している。星野・元野球日本代表監督、岡田・元サッカー日本代表監督をはじめ、スポーツ界の人脈は広い。現在はスポーツ実況、司会、講演等で幅広く活躍する。

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